世界フィギュア女子シングル、浅田真央選手優勝しました。五輪後一ヶ月、練習を休んだのは一日だけだと伝えられている。アスリートとしてたゆまぬ日々の研鑽の結果が実を結んだのだ。この大会は、次に繋がる演技だったと思う。本当によかった。
一方で、フィギアスケートって、ただ身体能力を競う種目ではないのだと、見ていてしみじみ感じた。技の細かな評価については良く分からないが、やはりその選手の持つ「現れ」というのが結果に直結していると思う。調子の良い選手というのは、その「現れ」がダイレクトに見ているこちらに伝わってくる。具体例を挙げると、SPでの長洲未来選手の現れは輝いて見えた。伸びやかで明るい演技。見ていて気持ちよかった。
そういう意味で浅田選手の演技を振り返ると「流石!」と唸らせる演技ではあるが、見ているこちらの心を浮き立たせてくれる演技かどうか?という部分で少し「?」が残る。あの状況でキチンと点数を積み上げて優勝まで持って行ったのだから凄いと思うのだが、あともう少し「何か」を望んでしまうのは、贅沢なのだろうか?
試合後のインタビューで「ノーミスで滑ることが出来た」ということを頻りに話していた。「ノーミス」。これが彼女の中での最大の目標だったのだろう。そしてシーズン最後の試合でキチンとその目標まで自分を持って行った。その意味で次に繋がる演技だった。しかしその次が難しいのだ。
そんなことを考えていたら、
同じようなことを考えて書かれた記事があった。
僕の言いたいこともまったっく同じことだ。そして一つ象徴的に感じたこととして選曲がある。「ラフマニノフ」は高尚で良いのだけれど、個人的にはもう少しポップなメロディーで滑る浅田選手を見たい。フィギアスケートにおける選曲は、とても重要と、僕は素人ながら思った。
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3月29日追記
書いたことを読み返しながら、自分が書きたかった核心に思い当たったので追記する。
つまり「ノーミスで滑る」という目標はあくまで選手の個人的な内向きの目標であり、観客との乖離の匂いが問題なのだ。そこには積極的に観客を楽しませようという意識が見て取りにくい。フィギアスケートはアスリート競技であると同時に、エンターテイメント性を含んだショーの要素も大きいと思うのだが、これは勘違いだろうか?
しかし、これはフィギアスケートに限らず「表現」に共通する大事な要素だと思う。もちろん写真表現においても。自戒をこめて。。。。