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オリジナル

 「学ぶ」とは「真似ぶ」に語源があると本で読んだ。なるほど、世の中に完全なるオリジナルなどあり得ない。先人達の貴重な遺産をなぞりつつ、その要素を組み替え、自らの体内に取り込むことによって科学変化を起こし、自身のオリジナリルへと昇華させてゆく。これが表現活動だと思う。

 そういう意味で、何かを表現している人には師匠というのがいる。それは具体的には、隣にいる人物であったり、著作の中にある思想であったり、レコードやCDなどのメディアに封じ込められたエネルギーだったり、ネットの先に居る面識の無い人の考えだったり様々だ。しかし、先ずは「学ぶ」姿勢が大切。その段階は「守」「破」「離」と大雑把に分けられる。

「守」師の教えを愚直に実践する時期
「破」師の教えを積極的に破る時期
「離」それまでの経験を踏まえつつ、自らのオリリジナルへ昇華させる時期

 「守」及び「離」の時期は修行期だ。表現者には誰にでも経験があると思うが、こうした時期を経て自らのオリジナルを発表してゆく。だからこそ、そこに誰かの影響というのは避けられない。

 しかし、時としてその影響の度合いというのが問題になる。つまり「似すぎる」ということだ。「影響」と「コピー」は違う。特に音楽などはデジタル的要素が強いのでこの「影響」と「コピー」の境が難しい。「どこかで聞いたことのあるメロディー」を譜面で分解してみると、それはその元になったメロディーにほぼオーバーラップしてしまうということがある。こうなった時の判断は難しい。ライブ演奏なら解釈の仕方で別の切り口を持たせることもできるが、固定化したレコーディング演奏だと問題はややこしい。

 佐野元春氏が音楽界におけるこうした影響の問題を「インスパイアー」という言葉で解説していた。「つまりそれは娘が母親から料理の味を受け継ぐようなものなのだと」。この解説は腑に落ちる部分と落ちない部分がある。分析は省略するが、問題となるのは師が母親一人であるという点だ。家庭料理の味についてはこれで問題ないだろうが、もしこれがプロの料理人となると話は別である。プロとして、誰かにそっくりな料理を作って出すということが、果たして許されるのだろうか?

 話を「写真」に絞ってゆこう。自然写真の分野も「オリジナル」については難しい部分がある。特に写真というのは音楽で言う「レコーディング演奏」と同じで固定化されてしまうので、より突き放して客観的に見る比較の対象になり易い。また時を経て繰り返し比較されることで、アイディアのオリジナリティーについて何度も評価を受けることになる。身近にアイディアの源泉が転がっていると、その関係を簡単に暴かれてしまう。だからこそ、アイディアの源泉との距離が近いこと、またそれを限定的に求めることは非常に危険なのだ。

 最近そうした具体的な事例に触れて「はっと」した。最初に書いたように、この世にまったくのオリジナルなど存在しない。僕自身もアイディアは色々なところから得ている。またそうした方法論については肯定的な立場だ。しかし、アイディアの源泉をいとも簡単に見破られてしまうような行為については疑問を感じる。それは果たしてオリジナルと言えるのだろうか?その事例を反面教師として、自らの写真をもう一度再点検してみようと思った。

by se-ji0038 | 2009-07-30 07:29 | 写真

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